内科 盛次義隆
最近、がん告知が増えてきました。皆さんはどうお考えですか?
医療従事者の立場からすると、患者さん本人にウソをつきたくはありません。がんに関する検査や手術にしてもきちんと話しておけば、スムーズに実施できるし、協力も得られるし、説明もできます。ということは我々にとっては言ってしまった方がずっと楽なのです。
医学部の頃
私が医学部の学生の頃(昭和50年代)、授業でこんな話しがありました。
禅宗のお坊さんが「私はずっと修行をしてきましたので、何事にも動じない。心積もりができているから是非本当のことを言ってほしい。」と言われました。そこで事実を話したら翌日自殺してしまったというのです。
今から考えるとこの話の真偽には大いに疑問があります。しかし、当時はやはりがん告知というものは軽々しく言ってはならないと私自身もそう思っていました。また自分自身ががんと告知されたとしても、言われてくよくよするよりは言われない方がいいと考えていました。
一方、ドイツ流の日本の医学では、医師は絶対で、患者や家族は従うべきであるという考えが強くありました。したがって、患者には必要な事だけを言えば良いとされていましたので、例えば血圧一つ測定してもその結果を言わないというものでした。
医学的診療にあたっての十分な説明による同意というのは最近の考え方で、当時は患者の側も病院では全てお任せコースを選ぶのが普通でした。それは何も医学に限った事ではありません。政治でもなんでも専門家にお任せコースを選ぶ人が普通でしたし、今もそれは変わってないかもしれません。
以前は
そのためがん告知は家族を呼んで本人抜きでするものと思っていましたし、世間ではそれが主流でした。家族に説明し、お任せしますという了解を得た後に、検査を進め、手術等を実施していたわけです。本人にはたいていの場合、少し悪い所があるから手術しますよ程度の事で了解をとっていましたが、私もはっきりと言うのが怖かったし、家族はもっと怖かったに違いありません。
そのとき家族が本人には真実を知らせずに最善の治療をお願いします等と言うとその時から全てウソで丸めるお芝居が始まります。すると次に受診した病院の医師もウソをつかねばなりません。
こうなるともうウソではなくなってしまいます。つまり本人の状況を考慮した適切な対応という呼び方に変わるのです。
本当にそうでしょうか?
真実を説明し本人と同じ立場に立って支援する勇気を持たなかった自分たちの体面を守るためだけの方便に過ぎないような気がします。
早期がんの人だけ告知していた時期
その後、私には早期がんの人にだけ告知するという時期もありました。幸いに早く見つかったので、手術すれば治るからがんばりましょうと伝えると、協力も得られやすいし、結果もいいからです。
本人に対しては「もし進行していて、手遅れなら告知しないよ」と言ってました。その時期は進行がんの方々に対して治療の効果が望ましくない場合は告げても気を落とすだけだと思い、告知はしませんでした。
告知するには私自身、勇気がいる割には、告知された本人が得られるであろう利益はそれほど無いと、私は思ってました。
進行がんの人にも告知
それから何かのきっかけ(たぶん北欧に行ったこと?)で、進行がんでもがん末期でも告知するようになりました。
最初は「本当のことを言いましょうか?」と尋ねていましたが、みんな聞きたいと言うに決まっているので、そのうちその確認をしなくなりました。そうなると治療法についても手術の時期、どんな手術か、期間や痛みやその間の生活制限など、またその後の抗がん剤の使用の有無や可能性、副作用、様々なことを話す必要があります。ただ、このあたりは狭い意味の医療に関することだけですからある程度お任せコースでもいいとは思いますが、重要なのはその人がその後生活する上での障害になってくることについての情報です。
命を長引かせることだけが本人にとって重要ではありません。管につながれて入院している期間だけが延びたのではつまらないでしょう。
ですから、治療法の選択にはきちんと本人が自己決定できるだけの情報が必要です。治療しないときの自然経過、治療したときの様子などを本人がその情景を思い描ける程度に伝えます。でも1回だけではだめです。機会あるごとに本人にとって必要と思われる情報やサポートをこちらが予測して提供する事が重要です。
がん末期も告知
末期がんの人にも告知して、充分話します。
がんを抱えたからだの状態はもちろんのことですが、今後の死に至るまでの心身の変化を順を追って説明します。食べられなくなってきて、痩せて、足腰が弱ってきて・・・などです。勿論、精神的変化、心の変化も大事です。不安になったり、怒りっぽくなったり、気分が落ち込んで何にも手につかなくなったりという事や、やがて悟っていくまでの通常のパターンに関して話しておきます。このあたりはそばにいる家族の理解も必要ですから家族にも協力を呼びかけ、家族の不安についても推測します。特に在宅で支える場合は本人も家族も強くなる事が大切です。
もう一つの重要なことはどの家族に話すかです。一緒に居る家族で本人が信頼を置いている人のうちで、本人の了解を得た人(人たち)になります。
家族への話
家族に話すときは十分な注意が要ります。
家族にだけ話すということはしていません。本人から家族にだけ話してくれと強く依頼されたときは家族にのみ話します。
その理由を次の2つの例を引きながら説明します。
末期の肝がん(肝臓のがん)の女性で一人暮しの高齢者でした。当時はまだ在宅サービスが不十分でしたから入院していた時の事です。
ほとんど食べられないので輸液(点滴)を毎日実施していました。がんへの治療効果は無いのですが、脱水を改善する為です。彼女は告知を受けてから家族や友人に連絡し、再会をかみしめていたようでした。ある日の病棟回診時にもう会いたい人にはあったからもう気が済んだという事で、点滴は止めました。中には会ってない息子さんもいらしたようですが、それでもいいのかと訊ねると、会いたくないということでしたのでそれ以上深くは聞きませんでした。
誰と最期を愉しむか、あるいは別れを惜しむかは本人の自由です。自分の病状を誰に伝えるか、誰といっしょに居たいかは本人の好き勝手だと思います。最期まで家族や社会に縛られるべきである、責任を持つべきであるという考えも否定しませんが、私はわがままでありたい。それを家族に先に告知することによって主導権が家族に移ってしまうという問題があるわけです。
末期の肺がんの男性ですが、家族からの依頼で本人にはがんとは言ってない場合です。
当院に入院する前の病院でそうだったので、私もいっしょになってウソをつくことになりました。ある日、病室に行くと本人がとても怒っています。勝手に子供が土地の名義変更をしてしまったと言って腹を立てているのです。後で遺産でもめる前に先取りしたわけです。なぜ、自分が入院中にそんな事をするのかと数日に渡って愚痴をコボしていました。
以上の理由で、がん告知については必ず本人のみに話します。その情報を誰に言おうがそれは本人次第と考えています。言いたい人、言いたくない人、心配させたくない人、打ち明けたい人、それらのことは本人が決めることではないでしょうか。
告知できない人
まだ重症の痴呆をかかえる方には告知していません。
論理的な話に馴染まない重度の痴呆の方に、どのような形で情緒的に伝えてどのような援助をしたら良いのか、私自身まだよくわからないのです。
がんと闘う人の話
がんと闘うなという本がありましたが、ここに登場してくれた人は生き生きと人生を送ろうとしている人です。
医学的にはがんとは闘ってませんが、自信を持った生き方でがんと闘っている人です。
直腸癌を抱えているS川 よSゑさんの場合
胃がんを抱えているS藤 M美さんの場合